
というテーマをぼんやり考えていたら、作家・安部公房氏がジャーナリストからの同じ質問に対して「書くことが作家にとって生の形式であるから」といった趣旨の答をしていたことを、どこかで読んだ記憶が不意に蘇りました。かれこれ20年ほど前に読んだ記事なので、正確な文面かどうか確かではありませんが。
かつて「砂の女」や「第四間氷期」に夢中になった時期があったとはいえ、長いこと彼の小説とは無縁な人生を過ごしていましたが、先日たまたま安部氏と大学で同級生だったという方と雑談する機会があり、その縁で思い出したのかも知れません。
もともとは、医療会のホームページを刷新する企画会議の中で「ブログでも書いてみたら面白いかも」という話になり、じゃあ何を書こうかと考えているうちに、そもそも「なぜ書くか」という疑問にとらわれてしまい、ずるずると今日にいたっている次第なのですが、それにしても「生の形式」という安部氏の回答は、今にして思うと何かを隠しているというか、どこかに照れを含んでいるような気がします。
否、もしかすると本気で安部氏がそう考えていた可能性もないことはないのかも知れませんが、たとえばガウスやモーツァルトが半ば宿命のごとく生きた形式としての数学や音楽と違って、彼にとっての文学とはあくまで主体的に選択した結果だったのではないかと思います。あるいは、三島由紀夫氏が「生の形式」と言えば冗談めいて聞こえ、大江健三郎氏なら真実らしく響くということなのでしょうか?
それはともかくとして、書くことを職業としている訳でもなければ日記を綴る習慣もなく、不特定の人に向けてメッセージを発信した経験もない者が、「なぜ書くか」という問いに対して、自らを納得させうる倫理的な答をみつけるのは無理なようです。うーん、困ったなあ。
…などとあれこれ考えているうちに、そうだ、近い将来このブログをスタッフ全員でリレーエッセイを書いてもらう場としようなどという無責任な企画が思い浮かび、それならば根源的な問題については当面封印しよう、ついでに、上記あれこれを考えながら観ていたDVD作品の副題を、ブログのタイトルとして無断借用してしまおうと思いつき、LES SIGNES PARMI NOUS(「徴は至る所に」ジャン=リュック・ゴダール監督・編集)となりました。題材は周囲にいくらでもある、と解してよいのか分かりませんが。
というわけで、リレーエッセイにもっていくまでのつなぎとして書き始めてみます。スタッフのみんな、準備よろしく頼んだぞ!