昨年の12月、文学者・加藤周一氏が89歳の生涯を閉じられてからしばらくして、作家・水村美苗氏による追悼文が(どこかの新聞にだったと思いますが)掲載されているのをたまたま目にしました。たしか、加藤氏のような才人から興味を持たれたことは日本文学にとって幸運なことであったし、また、パリで医学の研究をしていた加藤氏を帰国させるほどの魅力を備えていた日本文学の豊穣さを貴重に思う、といった趣旨のことを水村氏は述べていたのですが、それが妙に印象的で記憶に残っていました。というのも、何だか加藤氏の追悼というより、日本の近代文学を供養している(笑)かのように読めてしまったからです。
もちろん、作家としての水村美苗氏が『續明暗』を発表するに至るまでの経歴を知らない訳ではないし、加藤周一氏との接点もある程度の想像がつくとはいえ、どうしてこのような内容の追悼文が書かれたのだろうかと不思議に思っていたところ、遅ればせながら、彼女の最新刊『日本語が亡びるとき』が読書界の一部で話題になっていることを知り、この本についての特集まで組んでしまったユリイカ2月号とあわせて早速読んでみました。
水村氏の論旨は極めて明快なもので、言文一致体の成立と近代文学の誕生とが決して自然発生的なものではないことを、ベネディクト・アンダーソンや柄谷行人といった名前も参照しつつ、「美苗タン、文豪萌え」といった類いの揶揄も気にせず(笑)、真摯に語る態度はある意味で感動的だと思います。
しかし、どういう状況において「日本語が亡びる」のかという立論において、微妙かつ繊細な部分が含まれており、そのためかユリイカに寄稿した論者たちの反応も、「この本はまさに私のために書かれたものだ!」と感激する人から「地雷を踏んでいる」と断言する人まで、様々に分かれます。そちらの方が、本文それ自体より余程面白かったりするのですが(笑)。
それはさておき、この本の副題が『英語の世紀の中で』であるという事実は、もう少し注目されて良さそうです。水村氏が言う「英語の世紀」とはもちろん21世紀のことですが、今世紀がそう呼ばれなければならない理由について、彼女は「インターネット唯物史観」とでも言うべき理論(笑)によって、技術が意識を規定していく世界を語ります。個人的にはこの部分が最も興味深く感じられました。
それとともに、日本語という言語がおかれた疎外論的な状況(!)にあって、加藤周一氏をダシにしてまで近代文学を擁護したかった水村氏の心情が少し理解できたような気がして、なんとなく感傷的な気分に浸ってしまいました。