2012/02/05

テオ・アンゲロプーロス追悼


個人的な話で恐縮ですが、先月の28日に48回目の誕生日を迎えました。とは言っても、最近では特別な感慨が湧くこともなく、ああ、また一年が過ぎたのだなとぼんやり思うだけなのですが、それはもしかしたら、誕生日とは決められた日時に確実に到来することが約束された出来事なので、予測不能性や意外性が一切なく、そういう点では凡庸なイベント(笑)だからかも知れません。むしろ、以前どこかで「誕生日には自分の生誕を祝うのではなく、自分を世に送り出してくれた両親に感謝を捧げるべきだ」と誰かが言っているのを聞いて、なるほどそれも一理あるなあと思ったのですが、それはさておき。

誕生日の当日、ギリシアの映画作家テオ・アンゲロプーロスの訃報を4日遅れで知りました。いつの頃からか、もう長い間、彼の名前とも映画作品とも全く接点のない人生を送ってきたはずなのに、そのニュースを目にした瞬間、20年前に一度だけ映画館で観た「こうのとり、たちずさんで」のワンシーンが鮮やかに記憶に蘇り、さらには、映画だけでなく映画を観たあの日の状況やら光景などがぼんやりと思い出されました。最近ただでさえ記憶力が衰え、ああ老化を自覚するとはこういうことかと身につまされることが多くなり(苦笑)、その上さらにまた一つ余分に年を重ねてしまった当日に、過去20年間でほとんど意識にのぼらなかった出来事が不意に記憶の中で再生されるとは全く想定していなかったので、まさしく予測不能で意外な経験をした次第です。

とは言っても、個人的にはアンゲロプーロスの映画にさほど熱狂した過去があるとはいえず、「旅芸人の記録」にしても「霧の中の風景」にしても、熱心に観た割には、あまり印象に残っていませんでした。なのになぜ、彼の訃報に接して長い間忘れていたことを思い出したのか我ながら不思議というほかなく、しばらくその理由をつらつらと考え続けておりました。

その結果思い当たったことは、最近、喪失をきっかけにして過去を思い出すことが多くなったような気がする、ということです。とりわけ、過去のある時期に一定の情熱と興味を注いでいたのに、ここ最近はその状況を把握しておらず、存在すら忘れかけていた対象が、不意に世の中から去ってしまったことを知った時に、そのような経験をしているようです。そしてその対象は人物に限らず、例えば建物とか組織などの場合でも同様に作用するようです。これは他の人にも共通することなのでしょうか?そして、長く生きていくに従って、そういう経験が増えていくものなのでしょうか?それにしても、喪失が記憶を呼び覚ます唯一の契機になりつつあるのだとしたら、何だかとても寂しいような気がします。

報道によれば、76歳という年齢でこの世を去らねばならなかったアンゲロプーロスは、新作映画の制作中に交通事故で亡くなったとのことです。彼の早すぎる死を追悼するため、今日はこれから、80歳の現役アメリカ人映画作家の新作「J.Edgar」を観に出かけることにします。映画そのものの喪失に立ち会わないようにするために、いそいそと映画館に出向いていくことが、映画に対して自分が出来る唯一の貢献のような気がするからです。